いままでのこと。その3:児童養護施設という場所。
児童養護施設、と聞いてすぐにピンとくる人の方が少ないかもしれません。
私は自分の過去をリアルの知り合いには話さないのですが*1どうしても話さないといけないようときにこの単語をだすときょとんとされることの方が多かった気がします。
なので、「簡単に言うと孤児院です」と説明しています*2
試しにぐぐってみると
児童福祉法41条は、「児童養護施設は、保護者のない児童、虐待されている児童など、環境上養護を要する児童を入所させて、これを養護し、あわせて退所した者に対する相談その他の自立のための援助を行うことを目的とする施設」と定義する。
だそうです。
ちなみに、今現在はわたしがいたころより多少は施設事情は改善されているようですが、安易に子供預けようとは思わないで欲しいです。本当に。
私と妹が父に連れられてやってきたその施設は、児童数100人を超す大所帯の児童養護施設でした。
施設のある町は日本人で中学生くらいまでの知識がある人なら一度は耳にしたことがあるであろう場所で、本物のお金持ちがたくさん生活している町でもありました。
その駅の徒歩圏内という今なら恐ろしい高値が付くであろう広い土地に何故児童養護施設ができたのか詳しいことはわかりません。
そこに施設ができた当初はまだ今ほどの知名度がなかったこと、戦直後で土地がまだまだ空いていたこと、あとは多分本物のお金持ちが集まっていたからこそなのかもしれません。
心にもお金にも余裕のある健やかな生まれ付いてのお金持ちは慈善事業がお好きですからね。
目の前に本当に困っている子供たちがいて見るに見かねて始まったのがかの有名な…えーと、養護施設の中では断トツ知名度のあるという意味で有名な「エリザベスサンダースホーム」で、それを聞いてはじまったのがわたしがいた施設って感じなのかもしれません。
いま、全国に児童養護施設はありますが個人が始めて歴史が長いのは私がいた施設とエリザベスサンダースホームくらいなんじゃないかと思います。
調べればいくらでもでてきそうではありますが。
同じ養護施設でもその形態は様々です。
わたしがいたそこは2歳から幼稚園までの子供が1階にひとまとめにされていて、小学生から高校生までの子供が縦割りに6部屋にわけられていました。
その他に中学生以上の男子のみの部屋が2つ。
学年で人数が違うので部屋ごとに多少の差はありますがだいたい1部屋に10人前後の子供が暮らしていました。
なんていうか、わかりやすくいえば小学校や中学校で行った海や山に近い場所での宿泊訓練をする施設に近いつくりかもしれません。
大きな浴場や、食堂、グラウンドがありました。
「3月のライオン」という漫画の中で主人公の少年が施設のことを「1人で落ち着ける場所の無いところなんだろうな」と表現していましたが、まさにその通りで。
与えられた自分のスペースは横幅30センチくらい縦が100センチくらいのロッカーとそのロッカーの幅と同じ引き出しが3段。
あとは寝るときの作り付けの二段ベッドだけ。
常にだれかがいてバタバタとしていました。
1部屋に1人ずつ保母さんもいました。
先生と呼んでいました。
先生は私たちが住む部屋と内側で繋がる個室で暮らしていました。
住み込みってことになるのでしょうか。
プライベートと仕事が近すぎて今思えば気の毒ですね。
しかも、その先生の大半は短大を出たばかりの若い女性。
高校生から見ればたいして年の変わらない人です。
そんな若い女性が小学生から高校生までの生活を見ているんですからそりゃあ大変だったと思います。
そして、やっぱりおかしい先生が多かったです。
逆に真っ当な神経の女性がこんな生活には耐えられないんじゃないかと思うのです。
各部屋にいる保母さんの他に指導員という男の先生が二人いました。
この人たちは、普段は事務所のある1階の部屋にいて、施設全体の行事やなんかを主に行っていました。
あとは事務の先生と園長先生、そして園長先生の奥さんが副園長先生として事務室にいました。
施設での1日のスケジュールを思いだしてみます。
起床は6時半、起きたらすぐ割り振られた場所の掃除をします。
7時から講堂に集まって礼拝。そうそう、この施設キリスト教系でした。
部屋ごとに年齢の低い順に並んで園歌と賛美歌を歌って、その日の連絡事項を聞いてお祈り*3して、朝ご飯を食堂で全員で頂きます。
食べ終わった人から順次身支度をして学校へ。
学校から戻ると16時からまた掃除です。
なので、友達と遊ぶときも16時までに帰らないとダメでした。
掃除の前にマラソンをさせられる日もありました。
17時ごろから順次お風呂。
18時から夕食。これは何故か部屋でとるので食堂でおばちゃんが作ってくれたのをみんなで運んで部屋で配膳。
食べ終わったら年長者が中心になって片付け。
宿題と明日の支度をしたら20時には小学生はベッドに入ります。
中学生も試験前の勉強などをのぞいて21時にはベッドに入らないといけませんでした。
更にこれが夏休みになると過酷でした。
私のいた施設では女子は小学校3年からソフトボール、男子は小学2年から野球に強制参加だったのです。
これは夏に施設対抗の野球とソフトの大会があったせいなのですが、本人の意志とかスポーツの好き嫌いなどは一切合財無視での全員参加でした。
なので、大会直前の夏休みは
5時に起床して朝練、6時半からラジオ体操、その後はいつも通りに朝食まですませ午前中は10時半まで勉強。その後昼まで練習。
お昼ごはん食べたら昼寝の時間で14時まで強制的にごろごろさせられまた練習。
16時から掃除してその後また夕飯まで練習。といった具合でした。
各部屋にテレビはありましたが、みられるのは金曜の19時から20時までと土曜の20時から21時までのみでした。
ソフトボールと野球は夏でしたが、冬には町の駅伝大会にも毎年強制参加でした。
なので、通年土曜日の午後にマラソンをさせられました。
土曜日の午後は他にも作業という時間があって草むしりや窓ふきなどを二時間ほど行いました。
マラソンはその後すぐだったので友人と遊ぶ時間はありません。
日曜日には朝から教会にでかけて礼拝と日曜学校に行かされました。
月々のおこづかいは、小学校低学年が300円、高学年が500円、中学生が1000円で高校生が3000円でした。
お金は自分で持つことが許されず全部先生に預けて買いたい物があるときは申告するのですが、買い食いは禁止でレシートの無いものを買うことも禁止でした。
買い物をしたらレシートとお釣りがちゃんと合ってないとダメで、もしレシートやお釣りをなくしたとなるとものすごく怒られます。
これはひそかにお金を貯めてタバコを買ったり家出の資金にされることを防ぐためのものだったようです。
部屋の年長者は部屋の代表として施設の行事を運営する側になります。
月に一度会議があって、毎月上旬に開かれるお誕生会の司会進行をつとめます。
お誕生日のプレゼントの買出しも部屋の代表が行います。
その他、細々とした用事を押し付けられるのもだいたい部屋の代表でした。
施設での権力図は年齢に関係なく施設にいた期間の長さで決まりました。
一番上は勤続年数の高い先生。
なんせ住み込みですから若いうちに結婚してやめてしまう人がほとんどでした。
逆に残ったハイミスの先生たちはどこかおかしい人が多く理不尽に権力を振りかざす独裁者のようでした。
次に権力があったのは施設に幼い頃からいる子供でした。
みんなそれなりに辛い過去を持つクセのある子供たちですから、若い新卒の先生などとても太刀打ちできないようでした。
新しく入ってきた子供たちは家から大事に持ってきたおもちゃや漫画などたちまち取り上げられてしばらくは泣いて暮らすのが当たり前でした。
これは今も同じならしいですが、養護施設に入られるのは基本的に中学卒業まで、それ以降は公立の高校に受からない限り施設からは卒園することになっています。
私がいた頃、高校生になれたのは1学年に2人くらいでした。
何故ならみんな全然勉強ができなかったからです。
偏差値の低い公立高校は今に比べて本当に少なくて、結局倍率も上がってしまうのです。
施設にいたほとんどの子供が授業についていけてませんでした。
それどころか、中学に上がるとほとんどが不良になってしまうので内申もめちゃくちゃです。
そういうわけでほとんどの子が中卒で就職でした。
男子は住みこみの土木系や工場。女子は住みこみのお手伝いさんや工場、お針子さんになったりしていました。
そんな児童養護施設にもいいことは3つほどありました。
まず、食事。
献立は学校の給食のように栄養士さんの監修の元一か月分予定が組まれて食堂のおばちゃんと呼ばれてた方々が作ってくれていました。
献立自体はまぁごく普通だったのですが、食材がすごかったのです。
これは、施設から出て初めてわかったことなのですが、お魚にしても野菜にしてもかなり高級品だったようです。
特にハムとパンは地元でも有名なお店のものでした。*4
そう、ここはお金持ちの町。
その町の有名なお店のものなのですからそれはもう…信じられないような高級食材だったのです。
卒園後、施設で食べてたあれが美味しかったから作ってみよう!と思いたってレシピを調べてスーパーに買いに行ってみたら頂いていたものよりだいぶ見劣りする切り身しか買えなかったこともありました。
食材にはお金を惜しまない園長で本当にありがたかったです。
それと、所謂寄付とボランティア。
海外の大物スターがコンサートに招待してくれたり*5大相撲の有名力士さんがお餅つきにきてくれたり。
お菓子組合さんがクリスマスケーキをくれたり、自動車会社の青年部とやらが一緒に遊んでくれるために来たり。
半年に一度くらいの頻度で来てくれていた理容師さん美容師さんもボランティアだったはずです。
横須賀の米軍基地のアメリカ人さんもきてくれました。
ものすごい大きなヘリでサンタコスでやってきてくれたのですが風で髪の毛がぐちゃぐちゃになったうえ目潰しのごとく砂が飛んできたのを覚えています。
基地に遊びにも行きました。
31アイスがアメリカ独特の奇妙なフレーバーしかなかったり、船の中で蛇口からジュースがでるのをみせてもらったり貴重な思い出です。
様々な企業、団体さんの色んな贈り物を頂いたものでした。
後もうひとつ
施設には年2回、お盆とお正月に帰省期間がありました。
親が片方だけでもちゃんと連絡が付く子、引き取れないけれど親戚がいる子などはその期間家へ帰ります。
私のように全く両親とも連絡がとれず身寄りが無い子供には里親が宛がわれました。
子供がいなかったり、もう子供が巣立ったご家庭にお邪魔して普通の生活を体験させていただくのです。
そのままそのお家へ引き取られる子供もいました。
その里親ともそりがあわない子たちは施設に残り、1つの部屋で楽しく過ごすのが慣例になっていました
さてこの施設、今もありますが私がいた頃と名前も経営者も変わっています。
私がいた頃の名前でググると児童虐待や運営の不手際や脱税問題などの記事がヒットします。
そういう場所で私は小学中学高校の12年を過ごしたのでした。