いままでのこと。その2:幼稚園卒園まで。
幼稚園の頃、私は背の順で一番後ろでした。
5月生まれなせいもあってとてもしっかりしていると評価されることが多かったです。
今はどちらかといえば背は低いほうなのですが。
幼稚園の頃を思いだしてみます。
私は1人で幼稚園へ通っていました。
今だと考えられないことですが、行きも帰りも1人でした。
お弁当も自分で詰めていました。
炊飯器のご飯とあとは冷蔵庫の適当なものを詰め込んだだけでしたけど。
ここらへんよく解らないのですが
父は仕事に行っていたとして母は何をしていたんでしょう?
多分、寝ていたのかもしれません。
母は水商売で働いていた時期があった気がします。
私も何度か夜間の保育園みたいなところですごして送迎の車で夜遅く帰ってきたような覚えがあります。
私には妹がいました。
妹は、私より3つしたで生まれながらに心臓に病がありました。
今なら中学生まで医療費免除が当たり前ですけど、当時は結構な医療費がかかったんじゃないかと思います。
妹が生まれる以前の記憶は私にはありません。
なのでアパート暮らしの記憶には必ず妹がいます。
妹は母に似ていました。
私は道産子の父にそっくりでしたが。
妹はいつも顔色が悪くて小さくて細くて、泣くと唇が青くなるのです。
そんな妹と私は夜まで2人きりでした。
幼稚園から帰ると入れ替わりに母が出かけてしまうので、父が帰るまで私が妹をみていたのです。
最後のほうは入れ替わりどころか私が帰ると母もいない時がありました。
大抵、妹が寝ている間だったようですが私が帰るより先に妹が起きてしまうと泣いてまた真っ青になってしまうのです。
それが怖くて私は幼稚園から走って帰っていました。
泣かせたら死んでしまうと私は聞かされていました。
大げさに言っていただけなのかもしれません、が、死んでしまっていたらという恐怖でいつも走っていました。
机の上には100円がおいてあってそれが私と妹のご飯代でした。
妹と駅前に行くには遠すぎるので大きな通り沿いにあった駄菓子屋さんのようなお店で袋の塩ラーメンと小さなお菓子を買うのが日課でした。
ラーメンも当然私が作っていました。
客観的に見て、当時の自分がかわいそうだなぁと思うのです。
けれど、当時の自分は全然自分をかわいそうだとは思っていないのです。
大人に頼られてる、期待にこたえてるという満足でいっぱいだったように思います。
幼稚園の先生の「しっかりしててえらいね」という言葉にものすごく調子にのっていたものです。
多分、めいっぱい同情されていたのでしょうけれど。
今だったら児童相談所に通報されてたんじゃないかと思います。
妹の病気は、手術しないと治らないものでその手術のためにはもう少し大きくならないといけないということで、この生活がしばらく続きました。
幼稚園の卒園が見えてくる最後の1年になると幼稚園では小学校生活にむけて様々なことを教えてくれるようになりました。
みんなと一緒に新しいランドセルを背負い、同じ敷地内の小学校へ通うと当然のように思っていました。
けれどそれは叶わない夢になりました。
母親が出て行った日のことは鮮明に覚えています。
何故かその日、いつもいない母が夕方までいたのです。
電気もつけずずっと思い詰めたような表情をしていた母が
「ちょっと買い物にいってくるね」「何か欲しいものある?」と、聞いたのです。
私は、割れないシャボン玉をねだりました。
あの、ゴムのようなものをチューブからだしてストローにさして膨らませる風船にしてはか弱くシャボン玉にしてはすこし強いアレです。
母は、わかったと言って泣きながら出て行きました。
そのまま帰ってこなかったのです。
夜になって帰ってきた父にそのことを話すと
「なんでついていかなかったんだ!」と言われました。
その時にようやく私たちは母に捨てられたのだと知り、父も自分たちが邪魔なのだとわかったのでした。
とはいえ、恨んでいるわけではないのです。
父に関して言えばもう翌日から困った事になるわけですから。
1度だけ父の仕事場に連れていかれたことがあります。
私たち2人だけで家においていたせいで何かしら近所のひとに言われたのかもしれません。
2階に住んでいた男の子二人のご家庭のお母さんには何度か事情を聞かれて妹の世話をしてもらったり食事を頂いたりした覚えがあります。
幼稚園児が心臓に病を抱えた幼児と2人きりですごしているなんて字面で見ただけで恐ろしい事態ですよね、本人はわかってなかったですけど。
父の職場は何か小さなネジのようなものを作っている工場で、私たちは端っこのソファーでじっとしていることしかできませんでした。
危険だから仕方ないこととはいえかなり窮屈な時間でした。
そんな状況でも、自分は普通の小学生になれるのだと信じていました。
幼稚園を卒園した私は春休みに入りました。
しばらく家には帰れないから荷物をまとめるようにと父が告げました。
こういうとき私は何か質問したりせず言われた通りに行動するようになっていました。
どこかに一時的に預けれらるのも慣れっこになっていました。
ただ、どうしても持って行きたかった卒園アルバムを取り上げられたことはどうしようもなく悲しかったのを覚えています。
父は、私がどこに住んで何をしていたのかを思いだせるようなものいっさいを持たせたくなかったのかもしれません。
お世話になった2階のおばちゃんとおにいちゃんたちにプレゼントを貰ったことも微かに覚えています。
おばちゃんが泣きじゃくっていてとても不思議に思ったものです。
もらったのは小さなぶらんこの置物でした。
ある雨の日、長いこと電車に乗って私と妹と父は見知らぬ町へやってきました。
そして大きな建物でにこにこしている大人に引き渡されました。
泣く妹に「大丈夫、少しの間だけだよ」と声をかけました。
妹と私はどうやら別の部屋で過ごさないといけないらしく妹は泣きわめいたのちに眠ってしまいました。
父が何か言っていたように思いますがはっきりと覚えていません。
ただ、いい子でまっていようと思ったのは確かです。
少しの間だけ、本当にそう信じていたその施設で私は小学校から高校までを過ごすことになります。
父と母とはその後、今に至るまで一度も会っていません。