猫と萌えがあればいい?

いい加減おばさんに片足つっこんでる私の萌えと猫と日常。ゲームもアニメも大好き。アイドルマスターは765も876も346も315もみんなまとめて大好き。あとは刀剣乱舞その他もろもろ。真っ白な愛猫が現実を支えてる毎日。

いままでのこと。その1:家族で暮らしていた家の記憶。

年を経ると記憶はどんどん薄れていってしまうから。

普通のご家庭ならアルバムや両親や親戚との集まりなどで記憶が上書きされていくのかもしれないけれど、どちらも無い自分のために書き留めておこうと思います。

 

その前に

私はかなり昔にテレビ番組で両親を探して貰っていてその時にテレビでは放送できなかった部分も含めていろいろなことを知ることができました。

なので、その番組で探偵さんが調べてくれた色々な情報も含めて書いていくので途中なんでそんなこと解るの?って部分があるかもしれません。

 

あと、自分のための文章なので読んでも退屈かと思います。

 

 

 

私が産まれたのは東京の目黒の産院でした。

母子手帳にはそう記されています。

どうやら母親の実家が目黒だったようです。

住所は黒く塗りつぶされていましたが。

 

私の名前は1度漢字で書かれてのちに訂正されてひらがなになっていました。

小学中学時代は嫌いな名前だったけれど今は良い名前だと思っています。

 

私自身の記憶の始まりは小さなアパートでの暮らしからになります。

高台にあるぼろいアパートの1階。

玄関を入ると右手にお風呂とトイレ。

先に進むと右手に居間、左がキッチン。

居間とキッチンの先に2部屋あって右側が子供部屋で左が夫婦の部屋。

その寝室の窓の向こう側は駐車場でした。

そこで私は妹と両親と4人で暮らしていました。

 

もう10年ほど前のことですが偶然にも成人してからできた当時の恋人が同じ沿線に暮らしていたことがあって、1度記憶を頼りに駅から歩いてみたことがあります。

更につい最近、気まぐれでストリートビューを見てみたせいで記憶が補強されています。

東急東横線の鷺沼という駅です。

駅を出ると右手にロッテリアがありました。が、行ってみた時にはミスドになっていて今現在はまた違うお店になっているようです。

今はどうだか知らないけれどミスドになっていたときにはお店の形はそのままでした。

 

目の前には大きな東急ストア。

1階のマックによく行きました。

私の母は料理が苦手だったようです。

でも、子供にファストフードを食べさせるのはとても気がひけたようで私はフィレオフィッシュばかり食べさせられていました。

せめてお魚をと思っていたのかもしれません。

仮面ライダーのショーも見た記憶があります。

ステージにおかれた箱にどこかのお父さんがすいこまれて消えたのが怖くてショッカーがこっちにきたらどうしようと怯えてたのを覚えています。

今なら仕込だってわかりますけれど、本当に怖かったからよく覚えています。

東急の道を隔てた隣には不二家のレストランがあって極稀に連れて行ってもらえました。

駅から東急を目の前にして右へ行くとしばらく緩い坂道が続きます。

下りが急になったらそのまままっすぐいけば左に小学校があるはずです。

その小学校の中にあった幼稚園に私は通っていました。

今は幼稚園はやっていないようですが建物と門はそのまま残っていました。

幼稚園の門と向かい合うように道を隔てた向こうに公園があってよくそこで遊んでいました。

とても高い平均台を組み合わせたような遊具あってそこの上を歩いたりローラーの滑り台で遊んだりしました。

 

立ち寄ってみたら見上げるほど高かった遊具が私の肩より低くて頭を殴られたような衝撃を覚えました。

そうか、自分はこんなに小さかったのか…

 

小学校へは行かず、さっきの急な下り坂が急になる前まで戻ります。

駅からの道を左に曲がって、そっちもやっぱり急な下り坂です。

途中に小さな公園もあります。

 

この辺りから記憶が曖昧でした。

私が住んでいた頃と大きく変わっていたこともあって一瞬道を見失ったのですが

 

見つけました。

牛乳屋さん。

というか、牛乳を配送しているところ?

今思えば不思議なんですが、私はここによくおつかいで牛乳を買いにきていました。

お店じゃないんですけどね。

で、ここでトラックとの事故を起こしているんです。

とはいえ、ひかれたわけじゃなくてゆっくりバックしてきたトラックに押されて倒れてトラックの下にすっぽりはいっただけなんですけども。

運転手さんにとってはたまったもんじゃないですよね。

私はお気に入りの洋服が汚れて、母に怒られると思って号泣して慌てた牛乳屋さんたちが救急車を呼んで、どっこも怪我していないのに運ばれたのでした。

 

という、大迷惑をおかけした牛乳屋さんがまだあったおかげで記憶の道がつながりました。

そこからは歩いて5分ほど。

アパートはどうやらストリートビューによるとまだそのままあるようでした。

近くにあった大きなハムの工場はなくなっていてすぐそばに大きな道路ができていました。

 

鷺沼の近辺は今はなにやらお金持ちのエリアになっているようですが、その隙間のようなこの辺りは記憶どおりのままでした。

 

家の中のことを思いだすといつもとても不思議な気持ちになります。

けして広くない部屋、あまり使われた様子の無い台所。

なのにキッチンの棚にはフォートナム&メイソンの四角い紅茶の缶とか皮がぱりぱりと香ばしいフランスパンが常備してありました。

歯がはえかわる時期にフランスパンで歯がとれたのを覚えています。

イチゴをたべるためだけの綺麗なガラスの皿はあるのに、日常使いのお茶碗やお椀がなかったような気がします。

母の手作りの料理は牛丼しか覚えていません。

「お母さんは料理が苦手だから」と父が言ってたような気がします。

冷蔵庫の中には大抵「白い恋人」がはいっていました。

父はビンのキリンビールが好きでおつまみによくレーズンバターとかにみそを食べていました。

 

後に、パスポートを取得するため初めて戸籍を見て知るのですが、父親は北海道出身でした。

探偵さんの報告によれば

父親は高校卒業後、集団就職で東京へ出てきて庭師として働いていたそうです。

そして、お庭の整備をしにいった目黒の家の母と出会い私を身ごもり、大反対を受けながら半ばかけおちのように家をでて父と暮らし始めたのだそうです。

 

けれど、お嬢様育ちの母は結局実家に頼ることが多くちょこちょこと家に帰っては戻ることを繰り返していたようです。

母の実家は私の父を憎んでいましたし、私のことは元凶でしかないと思っていたようで一度も会った記憶がありません。

ただ、父と母が大喧嘩してよく母がでていってたのは覚えています。

 

母はおそらく実家での裕福な暮らしを捨て切れなかったのでしょう

もしくは、それが当たり前すぎて節度のある暮らしができなかったのかもしれません

分不相応な品々の記憶がそれを物語っている気がします

 

そうそう、なんでか知らないけどウサギも飼っていました。

外の窓にひっかけるようにして高い位置に小屋があったので私はあまり触れることができなかったせいか、「いたなー」程度の記憶しかないですけど。

 

いったん、切って次にここで暮らしていた数年のことを書こうと思います。